防人の木簡

大宝律令以前の飛鳥浄御原令下の「戸籍」「計帳」に関する木簡が当市内で出土し、発掘担当者から講話を拝聴しました。ところが木簡について不知識なので「木簡から古代がみえる 木簡学会編 岩波新書」を泥縄式で読んでみました。せっかちに全てに理解を得るのは当然無理のようでした。ただその中で唐津市虹ノ松原背後地の中原遺跡から防人関連の木簡が出土の記載があり、かねてよりの疑問に幾分かの示唆を与えられました。
それは防人はもちろん大宰府政庁・水城・大野城構築などに伴って多数動員された人員の宿泊衣食の調達がどうなされていたかの疑問です。
伊豆国甲斐国相模国等々から徴用されて来た防人は国単位で日常生活および勤務をしていたようです。国単位で守備地近くの農耕地が与えられ農耕して食糧に当てていたのです。屯田兵の制度に近いものだったのでしょうか。

鳴かぬ蝉

唐津の海岸に白砂青松の虹ノ松原があります。古来呼称について二里あるからだとする説も有りますが、実測値果たしてどうでしょうか。
それより鏡山の頂から俯瞰し海岸沿って拡がる松原の見事な景観は虹ノ松原がふさわしいと思います。
鏡山も松浦佐世姫が沖を往く大伴狭手彦に領巾を振って別れを告げたという伝説から領巾振山とも呼ばれています。
松原の蝉は鳴ぬと俗にいわれています。由縁は名護屋に陣を構えた太閤秀吉が松原を通る際「うるさい」と一喝、以来鳴き声を静めたそうです。通学路としてよく歩いたのですが、どうでしたか。
毎朝耳を聾する蝉時雨にはうるさいと一喝したいのですが、到底太閤殿下の威光には敵いませんね。

カイコのこと

小学生のころ伯父の家に行ったときのことを思い出しました。伯父のお母様がおいででしたが、相当なお年寄りでした。しかし、いまでは今の私の年には及ばなかったと思います。遙けくも來つるものかなです。
私は白と黄のマユを戴いたのです。振ると音がしました。黄のマユはまるで黄金のように見えました。農家でも養蚕業でもなかったのですが、隠居所でカイコを飼っておられたのかもしれません。
そこでカイコのことを図書館で調べようとしましたが、「かいこ熊谷元一著」と「カイコの絵本きうちまこと編」の二冊しかありません。いずれも児童書ですが充分に知識を得ました。けれどもあれほど盛んだった養蚕業について現在忘れられてしまっているのでしょうか。もっとも当地ではあまり養蚕業は盛んでなかったからでしょうか。
もともと町育ちの私でも所々で以前養蚕に使われていたと思える倉庫風の大柄な建物を見ます。桑畑はすでにありませんが道そばに残っている桑の木は見ます。赤い実を着けていますね。それと別の話ですが、煙草乾燥小屋の建物も見つけることあります。朝倉市には専売局支所があったのです。
「カイコの絵本」は「そだててあそぼう農文協園芸絵本シリーズ」の一つですがシルクロードについて、人間の歴史上でとても重要な道であったことをも復習できました。

蟻の浸入

アリの侵入しきりです。
どうやら連中はイエヒメアリのようです。このアリは駆除に手を焼くそうです。もっともたかだか三ミリに及ばない虫ですから、過分な気を廻すのはどうかと思われます。
熊谷守一画伯は日がな一日庭に寝転んでアリが左足から踏み出すか、右であるかを観察されたそうです。もっともクロヤマアリだから 出来たことでイエヒメアリではどうでしょうか。
アリは社会性のある昆虫だそうです。やむなくアリをひねり潰す際にこのアリにも一家一族の生活がかかっているのではあるまいか、女王アリは互助救済の手立てを考えておいでだろうか−などとつまらぬ算段をしております。
しかし社会性とはそんなことではあるまいかと思いました。

冷凍マンモス

一九〇〇年八月シベリヤで冷凍マンモスがラムート人の猟師セミョン・テラビキンによって発見されました。以下の知識は【マンモスをたずねて 井尻正二 著 ちくま少年図書館6】によります。
そもそもマンモスといえば動物の中でも図体が大きい代名詞にされていて、私はこの本を読むまではアフリカゾウが2メートル80センチ〜3メートル70センチの上背でマンモスより大きいことを初めて知りました。
ゾウの鼻先はキャラメルの包み紙を器用に剥くことが出来ます。普通は立ったまま眠るが、敵がいないことが判れば、横になり大きないびきをかき、大きな放屁するとのことです。
ペテルスブルグの科学院にマンモス発見を報告したのは、コザックのヤフロフスキーです。かれは賞金がもらえることを知っていたからです。そして一〇〇〇ルーブルの賞金を手にし、政府からは功労賞として銀メダルまで戴き、地方の名士となりました。ところが賭博をして一夜で賞金はなくすし、借金まで抱える始末となりました。
これは本の内容のほんの一部分のつまみ食いです。

散という字

漢方風なお薬には散という字が使われています。いわく龍角散、後藤散、実母散などで、もうあまり現れてきません。しかし毎日の新聞に挟まれてくる広告の健康促進薬?食品には漢方風な原料が含まれているように見かけられます。ですから手を変え品を変えられて知らず服用していることでしょう。
三、四年前唐津市内の数代続いた薬局で戦前架けられた数個の木製看板(いまどきのポスター同様でしょうが)がひどく雰囲気があって好ましく思えました。
使われた「散」はおそらく散薬の意味でしょうが、日常お薬に縁遠く、しかも新薬の名前にはほとんど漢字が使われていないので推測がつきません。
ここらあたりでは、ぞんざいな言葉使いの人でも薬と呼びつけにせず、お薬と言います。若い世代はもうそうでないようですが。

虎走散

私はよく徘徊します。往きはいいのですが、戻りは疲れがでます。往復運動にはそのようなきらいがあり、やむを得ないでしょう。梅翁随筆に表題の項があります。
半夏生・辰砂・黄柏・犬山椒・楊梅皮以上を等分に粉末にして、焼酎・膠・鶏卵の何れかで溶いて、足の裏、指の股など痛むところへしっかり塗っておけば豆の出来るようなことはなく、快々に数里の道を往復できる。
念のため半夏生は時節柄在り来たりの植物ですが、辰砂は水銀と硫黄の化合物・黄柏はキハダのこと・犬山椒(川傍で見かけるさして珍しくない植物)・楊梅皮は山桃の樹皮を剥いで干したもの)私の理解の範囲はここまでです。
更に 鬼ぐるみの皮を黒焼きにして糊に混ぜ塗布すれば、一夜のうちに痛みが去り翌日の歩行には少しも憂いがないとのことです。
梅翁先生は世の人にこの薬を役立てて貰いたいので書き記したとのことです。面倒がりの私は夢にも製造する気持ちはありませんがどこぞの製薬会社が虎走散を売り出してくれればと思っています。