ふらふらする惑星

ゴールデンウィークは近所の保育園がお休みでした。慣れないためかよく泣き声を聞きましたが、近頃はそんな園児もいないようです。反ってお休みが長くて皆と遊べず退屈したのでは、と思っています。私も休日近くの路地や空き地に人気がなくなるのがひどく寂しい気になったものでした。
宇宙には浮遊惑星というのがあり、どうして漂っているのかまだ詳しくは判っていないないが、この宇宙系には数千個あるかもしれないとのことです。決まり切った軌道を決まり切った動きばかりを続けるのが嫌なのかもしれません。かといって仲間外れも厭だしふらふらしているうちに何とかなるだろう、宇宙にはそんな呑気な道理は通用しないでしょうが。

2004−07−22

井蛙日記の始まりは平成一六年です。朝日新聞夕刊Bにブログの手引がありました。「はてな」のガイドブックを読みながら手探りでした。しばらくして其蜩庵井蛙坊を始めました。現在昭和六年生まれの私には二つは無理です。二者選択に困りました。どうにか続けてきましたが、今年末で終わりに致します。
拙文をお読みいただいていた方(もしもおありでしたら)有り難うございました。
はてな世話役の方々 大変お世話になりました。

往来手形

江戸時代、庶民が旅行をする際の、旅行許可券と身分証明書を兼ねたもの。檀那寺・町役人が発行し、関所・番所あるいは所々の役人・寺社などに呈示する。往来書付(広辞苑
いまさら縷々することは無いと思ったのですが、三軒先が国境などの位置にある村落などはどのような便宜な処理がなされていたのかが不明でした。唐津地方の地誌を読んでいたら、次の記述がありました。
急な用事で近国へ行く時のために、代官所は庄屋に板往来を三枚貸し与えている。これに庄屋添え手形を持参して用を済ませている。(藩境に住む厳木村の人々は、佐賀領の多久方面へよく所用で出かけている。このような時、板往来が使われた。)
御科恰土(糸島?)・松浦両部へ行くための板往来も二枚貸与している。
これは文化五年の「諸調書上帳」に記録があるそうです。ここで例示されている地域状況は山間地で隔てはあるとしても旧制中学校の通学区域内に含まれています。
村方の出店では、薬品・酒・豆腐などの日常必需品以外の商品の販売が禁じられ、百姓より商人になるのを禁じ、(商人が百姓になるのは勝手次第)その他多岐に亘る領内の縛りがあったことが分かりました。江戸時代の華美称賛歴史観とは違った世間が続いていたようですね。

六白金星

暦によると今年は六白金星となっています。織田作之助の作に「六白金星」があります。あらかた筋は忘れていますが、博才がある男の話ではなかったでしょうか。
私は六白金星ですが、ジャンケンに始まり勝負事に到ってこれはと思える出来事がありません。ただ公平感に疑問視する出来事はありました。
戦中のことです。物資不足の折でしたからズック(運動靴)の配給は抽選でした。学期中が区切りでしたが、一学期に外れ、二学期にも外れ、三学期は新年度に廻されました。しかし特に不運な巡り合わせもなく八十一歳になりました。
昨年同窓生が集まって傘寿のお祝いをしました。その話し合いの雑談と思いますが、女子同級生の「八〇年間なんばしよったやろうかネ」との述懐の弁にはいたく同感でした。
電子ブック(Kobo)で「プロジェクトX」シリーズを読み(これはNHKで放映されたらしいのですが)更に彼女の述懐が強く思い出されました。
まさに「下天のうちに比べれば夢幻のごとくなり」ですね。

パソコンとワープロ

私が最初に使ったワープロはキャノワードでした。文字表示は二行十五字、記憶はテープレコーダーでした。その後デスプレーの着いた機械が二十五万円でしたからその半分程度の値段だったと思います。現在携帯電話が使えるのは機械器具の巧妙さは勿論のことですが、コンピューターに日本語を教えたワープロ関係の技術でしょう。ローマ字を変換して日本語にする技術が専売特許であれば世界的シェアーは別として相当の利益を得ていることでしょうに。
悪筆の私が思いつきばかりですがエセイを書き続けられたのはワープロのおかげです。さもなければ読み返す気力はありません。

魚の触覚  

魚の五感のうち人間に似た器官の眼・耳・口・鼻などは推測できますが、側線が触覚を司っているその「側線」がよくわからなかったので保留にしておりました。それでは知識として落ち着かないので前述の本で補足します。
『側線は、表面的には頭から尾に向かって伸びる小さい孔の列のように見えるが、解剖学的には皮膚にたくさんの開口をもつ皮下の管で、体液で満たされている。水の振動は開口部の小孔を通じてこの管に伝わり、さらに管の下にあるゼリー状に固められた感覚毛に伝わる。この感覚毛は感覚神軽に刺激を伝え、感覚神経から脳に信号が送られる。このようにしてわずかな水の動きや流れ、水圧をも感じとり、敵や仲間、餌の気配を察知する。人が手で触らなければ触覚を感じられないのに、魚の場合は触らなくても水の動きを通じて触覚や聴覚をはたらかせることができるわけだ。』
なるほど水中生活に即した機能ですね。

魚の五感

以前お魚博士の本で魚の味覚について書いたことがありました。「ウニの赤ちゃんにはとげがない 葛西奈津子著」には詳しい解説があります。読んだ端から直に忘れるので、ブログに要点だけを私は書いておきます。これはと思える知識、主に雑知識ばかりですが、ブログを利用するのです。
魚には視覚・聴覚・味覚・触覚・嗅覚が備わっているそうです。水中生活には過剰な感覚とも思えるのですが、生きていくには余分なものは無いのでしょう。
魚の目玉レンズは完全な球形で前後に動かして焦点を合わせます。
耳には耳石があって巧みに水の浸入を防ぎます。耳石は木の年輪のように魚の生存期間推測を計量します。
味覚は口中には舌があり、そして身体のさまざまな部位でも受け止めます。
触覚は主に側線が司どっています。
魚の鼻は呼吸には全く関係せず前鼻孔から入った水が後鼻孔から出ていく途中で匂いを感じます。
雑駁な読みですが、著者が述べられた内容は上記本を読んで戴くより外はありません。