重たい遺言

黒田長政は家老小河内蔵丞と、嫡子忠之の後見役重臣栗山大膳に、次のように遺訓しています。
もしも後々我が子孫に不慮不調法な事があって、黒田家に存亡の危機があったならば、老中所縁のある衆に、当藩家老が出向いて、次のように抗弁せよ。
家康公御武徳故とは申しながら、偏に如水長政が忠功を以て御心安く天下之主と成せ給ふ者也。
第一某(長政)智謀を以て毛利家並びに金吾中納言(小早川秀秋)御方(味方)と成り候。是に付き外の御方仕る者多く成り候。此節先立美濃路へ馳せ上り候輩多くは太閤御取立の大名共なれば、此時我等心を変じ、かくとすゝめ候はば、福嶋、加藤、浅野、藤堂を始め、何れも悦びいさみ、即日大阪方と成るべき事案の内也。(以下省略)
かくは語聞する也。武に於て偽りなし。更に広言にあらず。其時を見聞候者(小河内蔵丞・栗山大膳)は、うたがひなき事共各存の通也。これを以て家康公の天下を知給うは、我々を初武勇ほまれ之大名共五三御方仕たる故とは云いながら、如水某二人が力にあらずや。
しかし遺言は遺訓だとしても、ご両人には重たい感じですね。戦時戦乱の理窟は、体制が固まった泰平時になってどうでしょうか。